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Une fois dans son hameau montagnard, l'Americain s'affuble de vieilles défroques couvertes de suie gardées là dans un coffre; sa chaumière, comme celle de tous le habitants du village, n'ayant que le foyer central des vieilles demeures paysannes attardées un peu partout dans la pré-histoire, du Japon à l'Italie et de l'Italie à l'Islande. La fumée s'échappe, quand elle s'échappe, par un trou pratiqué dans le toit. Ici végètent, paraît-il, les anciens descendants de Taira, dont les rares survivants abordèrent Shikoku après la défaite navale de Dannoura, et parlent encore entre eux la langue archaïque du XIIe siecle.
この山村で、そのアメリカ人は衣装箱にしまっていた煤だらけの古い服に着替える。彼の茅葺きの田舎家は、村の住民の家と同様に、囲炉裏があるのだ。日本からイタリア、イタリアから島にいたるまで、先史時代からあちこちで残ってきた暖炉である。立ち上る煙は、屋根裏に溜まり、屋根の穴から出ていく。壇ノ浦の会戦で負けた後、四国にたどり着いた平家の子孫は、ここで生き延び、そして今も彼等は、仲間うちで話すとき、12世紀の古い言葉を使う。 マルグリット・ユルスナール、『 Le Tour de la Prison』より。 祖谷、その歴史 |
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詩人、南相吉(みなみしょうきち)を初め、家を買った頃訪れた客やアレックス、そして当時は村にも数多くいた子供達が一緒に集まったとき、家に「篪庵」(ちいおり)という屋号をつけた。「篪」(ち)は、現在中国と日本でほとんど使われていない古い漢字で、「横笛」を意味し、「庵」(いおり)は「草屋根の家」を意味する。つまり、「篪庵」とは「横笛の家」という意味である。相吉は、この家についての詩を書き、昔のクエーカーの歌の音楽をつけた。子供達はよくその歌を歌ったものである。 |
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釣井の村人はいつも暖かく親切であった。中でも篪庵の隣に住む尾茂(おも)一家は、最初から篪庵の最も親しい友人となった。尾茂さんは、当時から現在に至るまで、家の保全と修理に関して主要な役割を果たして来た。
祖谷と篪庵の発見に関しては、アレックスの著書『美しき日本の残像』の最初の2章を参照して戴きたい。
1973〜1996年 初期
1973年、家は非常にみすぼらしい状態だった。電気も水道もなく、最後の屋根葺きから50年も経っていて、屋根は腐り、雨漏りがしていた。アレックスは当時まだ学生であったが、夏になると、友達(しょうきちやトム・ブラウンたち)と篪庵を訪れていた。そして、1975年には友人全部が集まり、屋根葺きをすることになった。
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屋根全体を新しい茅で葺く資金が無かったので、アレックスは、取り壊された古い家の茅を購入することにした。相吉、トム、そして他の友人達と一緒に、煤けた茅を背負い、村の端から他の端まで運び、そして尾茂さんと屋根葺き職人が篪庵の後部の屋根を葺いた。この屋根はその後10年保った。 |
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1977年、アレックスは大学を卒業し、京都郊外の亀岡に住み、大本ファウンデーションでアートプログラムの運営に携わるようになる。アレックスは定期的に祖谷を訪れることができるようになり、ダイアン・バラドーを初め新しい友人たちが夏や休暇のたび、そして大晦日などに篪庵を訪れるようになった。
この時期篪庵では、かずかずのイベントが行われた。座敷の床に銀粉を撒いて、そこで能を演じたり、ある時はしょうきちの妻(舞踊家)が夜中、雪の中で踊ったりと、前例を見ないようなイベントが行われた。
しかし、使い古しの茅で葺いた屋根は痛みはじめた。そこでアレックスは1980年から、茅や竹、その他必要な素材を集め始め、1986年に二回目、そして今度は屋根全体の葺き替えを行った。喜多聡(さとし)が請負人となり、彼と尾茂さんが一緒に99本の杉の材木を切り、家の中に運び込み、腐っていた垂木を取り替えた。後に、友人達が集まり、聡と尾茂さんを手伝い、葺き替えは1986年の春に完了した。
しかしその後、アレックスが定期的に祖谷に通えない時期が長く続き、その間、常時家に住む人も無かった。これは茅葺きの家にとって致命的である。毎日焚く囲炉裏の火が茅を乾燥させ、煙は茅を燻す。虫や蛇は近づかず、煤で覆われた茅は、クレオソートを塗布したように腐食に強くなる。しかし、家に住む人がいなかったため、家は再度痛み始めた。
1997年〜2007年 チイオリ・プロジェクトの設立
1997年、アレックスは活動の本拠地をバンコックに移した。日本には定期的に来ていたが、再度痛み始めていた家の状態が修復不能になるほど劣化するのを心配した。そこで彼は、家の所有権の半分を引き受け、家の管理を引き受けたメーソン・フローレンスと協力することにした。
メーソンは大工と新しい友人達を祖谷に招き、長期間放置されていた家に新しい生活をもたらした。クリスとローレン・シャノンは90年代から2000年代にかけて家を管理してくれた。
1999年、夜を徹しての話合いを何回も繰り返し、彼等はNPO「チイオリ・プロジェクト」(TCP)を設立することにした。これが、後に「篪庵トラスト」の基礎となる。マレーシアの舞踏家であるズルキフリ・モハメッド(“ズル”)は、新しい組織の設立を祝って、座敷にあつまった村人の前で踊りを披露した。
それ以後、多くのボランティアが篪庵に住んできた。クリスとローレンの後はシェー・イングラムが引き継ぎ、現在も篪庵トラストのアドバイザーであり、理事である。 井上大介と君代 と片山裕喜(ゆき)は2001年〜2004年、ボー・ザンとウエインは2004年〜2007年、篪庵に住んでいた。その他、枚挙にいとまが無いほど多くのボランティアからの参加、協力があった。
2006年、プロジェクトは新しい方向へ向かう必要が出てきた。アレックスはタイでの仕事のために日本から離れていたが、その結果、家は再度劣化し始め、NPOの資金は底をついてきたのである。しかしその後、彼の 日本滞在が長くなり、日本各地での修復活動に携わるようになったため、TCPの仕事をする好条件がととのった。そこで、
2007年6月、メーソンが自分が持っていた家の半分の所有権をアレックスに売却し、プロジェクトは第三の、そしておそらく最も重要な段階に入った。
2007年〜現在 新組織 篪庵トラスト
2007年7月、従来のNPOは新しい理事会のもとに再編され、名称を「篪庵トラスト」と改めた。数ヶ月かけて家を掃除、修繕し、新しいボランティアの協力を得て、11月1日に家を再開した。
相吉、トム・バロン、尾茂さん、喜多聡、ダイアン・バラクロー、メーソン、シェー、井上大介と君代、片山裕喜、ボーとウエインなど、多くの人々が彼等の人生の時間とエネルギーを篪庵のために捧げてくれた。今こそ、篪庵トラストが彼等の夢を実現する時が来たと云える。
今日、篪庵は、家屋として祖谷でもユニークな存在になった。アレックスが初めて祖谷に入ったときは、多くの家で囲炉裏を使っていたが、今は篪庵が囲炉裏を使ってる最後の家になった。多くの点(畳は敷物なしの板張りの床、天井がなく垂木が見えること)から、篪庵は何世紀も昔からの生活様式を受け継いでいる貴重な遺産であると言えよう。江戸時代においてさえも祖谷はすでに神話的存在であり、阿波の領主は、祖谷地方を「阿波の桃源郷」と評したほどである。
篪庵を保全することは、この古い時代を保存するための試金石となる。同時に、祖谷が21世紀を生き抜くことも重要である。そのためには篪庵トラストの活動が、篪庵を超えて村全体に発展する必要がある。篪庵トラストは、有機農業のための資源とボランティアの動員、古い家の修復、保養地としての新しい住宅や、休暇用住宅の建設、保続可能な観光開発、自然と山村の伝統文化を体験するプログラムの作成と実行などに携わることになるであろう。詳細は「篪庵トラストの目標と活動」を参照。









